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2007年5月26日 (土)

武上純希の遊戯王GXがすごい2

「破壊の衝動、それは誰の心にもある。お前の心の中にもな」

「破壊の衝動は、お前の中にもあると言ったろう。どうだね?怒りにまかせて相手を叩き伏せ、破壊した気持ちは爽快だったろう」

これは、遊戯王GXの第2期のラスボス斎王が、主人公十代に向けて放った台詞です。この回の脚本は、もちろんシリーズ構成の武上純希。

少年マンガのヒーローは、特訓で力を伸ばし、その力はインフレを続けることを宿命づけられています。

ヒーローの力は、どこまで強大になることを許されるのでしょうか?地球を真っ二つに割るまで強くなることも、マンガやアニメならば可能でしょう。けれど、そんな強大な力を、いったい誰に向かって振るえばいいのでしょう?

敵に向かって行使するのでしょうか?邪悪な敵が相手なら、地球を壊すほどの力を行使してもいいのでしょうか?

そもそも、敵って何?正義って何?今、力を行使しようとしている相手が邪悪な敵だとどうやって確信すればいいのでしょう?もう、僕たち私たちは、敵と味方が明確な世界に住んでいるわけではないのに。

この矛盾を解決するために、少年マンガの主人公たちは「闘わなければならない」動機を与えられることになっています。平和のために闘いたくないのに闘う、誰かを守るために仕方なく闘う。そういった動機を描くことができれば、主人公が敵に向かって振るう強大な力は正当化されます。

「闘い」を別のものに置き換える、という解決方法もあります。例えば、スポーツ。チームで闘うスポーツな、「フィールドに出るのはちょっと怖いけれど、仲間のために、勇気を出して闘う」という動機付けもできます。これなら、主人公が強さを追求することに、何の問題もありません。闘いは、野球やバスケやサッカーといったゲームの中に限定されますから、どんなに強大になっても、闘う相手の命を奪うほどの事態になることは希です(怪我はよく起こりますし、事故で相手が死ぬこともないとはいえませんが)。

けれど、遊戯王GXというアニメの場合、この限定は緩く、微妙です。「ソリットヴィジョン」と名付けられたヴァーチャルシステムで、ゲームであるはずの「闘い」は、視覚上、本当の闘いのように見えます。そして、マンガやアニメの世界で、「本当の闘いに見えるものが描かれる」ということは、「本当の闘いを描く」ことと、ほぼ同じことになってしまいます。

しかも、第3期になって突入した異世界編では、「この世界では、デュエルは本当の決闘であり、どちらかが死ななければならない命のやりとり」と設定されてています。デュエルディスクを構えるという行為は、バットを構えたりボールを蹴ったりする行為と同等ではなく、剣を構えたり銃を向けたりする行為と同等になってしまったのです。

そんな世界に、「楽しいから」という動機で闘うヒーローが投げ込まれたら?

学園生活を送っていた頃の主人公十代は、どんな時でもどんな相手とでも純粋にデュエルを楽しみ、そして勝利の瞬間、「楽しいデュエルだったぜ」と決め台詞を放って視聴者に爽快感を与えてくれたヒーローでした。が、異世界のデュエルは、勝てば相手の命を奪うデュエルです。そんな世界で、もし、「楽しいデュエルだったぜ」と言ってしまったら…?

武上純希は、少年マンガやアニメが、これまで上手に回避してきた「ヒーロー」と「闘い」の本質的な意味を問おうとしているのではないでしょうか。

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